香月院深励師の「小児往生」についての解釈
製本発注 | 1,400円 | 小児往生之辨 | 32頁 |
『小児往生之辨』について
国立国会図書館 (NDL) デジタルコレクション (DC) で香月院深励師の書物を読んでおられる方は少なく無いだろうと思います。けれどもそのような方々であってもこの文章については知らない人の方が多いかも知れません。というのもこういうタイトルでは書物が出ていないからです。深励師がこんなものを講じていたんだと始めて知る方が多いのではないかと思います。
これまでは「小児往生之辨」と検索しても何も出てきませんでした (こちら)。また住田智見師がまとめられたお東の宗学者の出版目録 (『大谷派先輩著述目録』真宗大系第37巻収録 ) (こちら) や井上哲雄師がまとめられた『真宗学匠著述目録』(こちら : 要ログイン) をみても深励師にこのようなタイトルの本があるとは出ていません。
この『小児往生之辨』の文章については以前たまたま深励師の別の本を読んでいて見つけたものです。他の題名の本の付録としてこの文章がついていました。
ところで最近 (2022年12月21日) NDL-DCがリニューアルされてバージョンアップしました。そしてそれに合わせて検索方法も大きく変わりました。話が少し脱線しますがこのリニューアルのおかげでコレまでココのホームページにて貼り付けていた検索結果リンク (直接リンク) が全部ダメになって (使えなくなって) しまいました。そこでこの年末に数日かけて新しいシステムに対応すべくコレまでの記事の全部リンクを調べ直して張り替えました。正直ちょっとした手間のかかる作業でした。この新しくなったシステムでは検索キーワードに対してなんと書物内容についての全文検索ができるようになっています。
この新システムでの全文検索では今回の文章がヒットします。検索キーワードに「深励 小児往生」と入れて検索をかけた時に内容検索結果として色々なものが出くる中に『真宗法話金言録』第五巻とある本の付録としてこの文章があります (こちら)。ちなみにこの元となっている本のメインとなる表題は『三首詠歌御文法話』です。
今回はこの付録の部分だけを抜き出して『小児往生之辨』として製本化しました。深励師の小児往生に関しての解釈が簡潔に述べられています。全部で32頁の非常に短い小篇ですが大切な事が書かれていると感じます。字が大きい上にページ数が少ないのであっという間に読めてしまいます。別に製本なんかしなくてもPCの画面上で十分読めます。ならば製本化する意味があるのかと云うことにもなりますが、折に触れて気軽に何度でも読み返すためには本にして手元におくと便利という事もあります。
この「小児往生」は実際に僧侶が門徒さんと接していく中では必ず一度は問われるだろう問題です。これから述べさせて頂くようにその中で気づかせて頂く日頃の私たちの姿勢もあろうかと思います。一度だけ読んで知識として知って終わりにするのでは無く、日頃の生活の中で何度も何度も読み返して自分の行動を反省するキッカケにと思い是非製本化したいと考えた次第です。
「小児往生」について
「小児往生」と聞いてピンくる方と、さて何のことだろう?と思われる方の大きく2つに分かれるかと思います。「小児往生」とは江戸時代に盛んに議論された問題のひとつで、まだお念仏を唱えることができないような小さな子どもは往生できるのかという事に関するモノです。
江戸時代とかは今ほど子どもが無事に育つ時代ではなかったのでしょう。新生児はもちろん5歳や10歳になっていても亡くなっていく子どもは多かったことと思います。そんな夭逝した子に対して真宗門徒である親が、お念仏も称えずに死んでいった我が子ははたして往生できているのだろうか、と疑問に持たれたとしても不思議ではありません。そしてこの問いに対して僧侶がどのように答えるのかについて様々な意見があって議論となっていたようです。
私が始めて小児往生について読んだのはお西の学者である慶証寺玄智師の『考信録』でした。この本の中に小児往生の項目がありました (こちら)。『考信録』は法式についての様々な故実が書かれている書物として有名ですが教学的なモノも書かれていて大変興味深い本です。でもお東の初代講師である恵空師の『叢林集』にも法式故実と教学と両方が書かれているのですから昔の方の本は皆さんそうだったのかも知れません。玄智さんは築地本願寺の輪番 (住職である宗主の留守居) もしていてかつ学者です。その時代は本願寺の知堂 (お勤めのプロ) が輪番をしていたのだから当時の方はお勤めも学問も両方できるのが当たり前だったのかも知れません。
また他にもお西だと日渓法霖師が小児往生について本を書かれていました (こちら)。やはり当時の教学的な大問題だったのかなと思うところです。これは現代でも同じで、もしご門徒さんから質問されたときにどう答えるのかは僧侶によって様々だろうなと感じます。
小児往生に関する返答で起こる問題点
もしいま私たちがこの小児往生について問われたらどのように答えるでしょうか。一般的にはざっくりとは大きく2つに分かれるのではと思います。つまり、(1) 往生できている、と (2) 往生していない、です。それぞれに根拠や理由があって主張することだろうと思います。
尋ねる側は大抵は子どもさんを亡くされた親でしょうから、彼らの心情を汲み取ることを主にする人ならば、(1) 往生できている、と答えるだろうなと思います。それは尋ねる親が「きっと往生してくれているだろう」と期待して尋ねているからです。その相手の気持ちに寄り添って答えるならば「往生できている」となるのですが、ただこれには本当に教義としてあっているのかという疑問が残るかもしれません。
もし教義からどうかと考える場合には、(2) 往生していない、という返事もあり得るのだと思います。これは答える僧侶の自身の立ち位置によって両方の答えがでてきそうな感じです。
香月院深励師の「小児往生」問題の解釈について
深励師の解釈については是非とも実際に文章を読んでいただければ良いと思います。NDLで直接画面を見て読み進めるだけでも短いのであっという間に読めてしまいます。
この深励師の解釈を拝見する中で気づかされるのは、念仏が唱えられない子どもだから、信心が頂けるだけの物心がついてないからどうなのか、というそんな私自身のモノの考え方に対しての投げかけがあるのではないかと思われる部分です。
深励師は、私たちがご信心を頂けるのは別に分別があるからでもなく、これはひとえに当事者の過去世の宿縁 (宿善) によるものと言われます。だから大人でも信心がまだ頂けてない人もいる、ソレの裏をかえせば物心つかない子どもでも過去世の宿善によって一声の念仏申す前に獲信できている子どももいるだろう、それをご存知なのは仏ばかりということになります。
これは親鸞聖人もご本典『教行信証』の「総序」にて「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」といわれていますし、七高僧の中でも源信和尚が『往生要集』大文第十の問答料簡、第八「信毀因縁」にて『無量清浄平等覚経』の「みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり」等を引かれてから「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし」と述べられています。
この宿縁を絡めた話の流れで私自身が思い起こすのは『歎異抄』第十三条です。
『歎異抄』第十三条について
『歎異抄』第十三条は「本願ほこり」について、そのような「本願に誇る気持ちでは往生はできない」と非難をする人に対して、ソレ (「本願ほこりは往生できない」と非難すること ) は違うと反駁をしています。何がどう違うのかというと「往生できない」と決め打ちする人の気持ちの中には、自分を律する姿勢、自分自身を整えていくことができなければならないとする気持ちが混じっているのではないかという辺りです。それは自力心ではないのかというのです。
そしてその阿弥陀様を誇る気持ち自体も宿縁によってもたらされるモノであるということが書かれていると見えます。また同じように本願に誇って悪を為す事を佳しとしてしまうことも宿縁によってすることで、今の私が悪を行わないことも、またもし悪を犯したとしても、それは縁に触れてのこと。自分の善し悪しで行ったのだと考えていることそれ自体が自分の力を頼る自力心を抱えた考え方になっていることになるという指摘だと感じるのです。
小児往生に答えを出す行為
小児往生についての深励師の主張には、この『歎異抄』第十三条での唯円師の主張と同様のものが見て取れます。往生できるとも、往生できないともどちらにしても、ハッキリと答えを出そうとする行為そのものに問題があると提起されているように思えるのです。深励師は本書で「人有て問ふに、此の間生れ子が往生せようや。せまいやと問ふなり。此は全体無理なり。」と云われています。大人でも子どもでも一緒で、往生するしない、できるできない、は宿善任せでそれは年齢に依らないと云われるのです。
宿善任せでどうとも言えないことに対して、自らが何らかの答えを出そうとすること、これ自体に自分の行為に手柄を求める自力的なふるまいとなっているのではないかと問われているように感じられるのです。
この本を製本化して座右の書にして折に触れて読むと良いかなと思うのはそういう処です。
今回の本はページ数が32頁と少ないので製本業者の制限でブックカバーの設定ができません。表紙をカラー色にしてブックカバー無しのモノになりますのでご了承下さいませ。