香月院深励師について

香月院深励師は江戸時代中期~後期に活躍されたお東 (大谷派) の第5代講師です。

香月院深励師については例えば Wikipediaのここ大谷派のここ に詳しく書かれています。深励師が最高位の講師職にあった時にお西 (本願寺派) では三業惑乱があったことや、深励師の弟子 (香樹院徳龍師) の更に弟子 (香山院龍温師) は存命中に明治時代に入っていて名字を名乗っている (樋口龍温) ことからも深励の生きた大体の時代が分かります。深励師の生涯は寛延2年9月3日 (1749年10月13日) – 文化14年7月8日 (1817年8月20日)、江戸時代を大雑把に3つの時代、1600年代、1700年代、1800年代と分ければ生まれた頃はまだ江戸中期、本格的に活躍された時代は江戸中期~後期という事になりましょう。

深励師によるお東学轍の統一

香月院深励師の学識はお東の学者たちに大きな影響を与えたと言われています。それはお西が三業惑乱で中央の学林の権威が失墜し、代わりに地方で多くの学轍が誕生したのとは対照的で、香月院深励という大学者が中央に登場したことで本山の高倉学寮に全国の知恵者が集中していったと感じます。お東でも九州には別の学派がありましたがそこから京都に出て勉強していた易行院法海師が深励師に深く師事して深励師の考え方を九州に持ち帰ったのでそちらも深励師の学派に統一された感があります。同様に中央の学寮でも深励師の考え方が後世に継承されていきました。

このことにはメリットとデメリットの両方の面があるようです。そのことついては住田智見師も指摘されています。

学轍統一のメリット

メリットとしては、高倉学派では多くの宗祖著作について以降の時代を超えて深励師の考え方で統一して考察されている感があります。なのである書物のこの部分をどう解釈すれば良いかについての高倉学派の考え方は深励師以降の学者の書物を読めば誰の講本を見ても大体において知ることができます。香月院深励師をはじめ、易行院法海師、香樹院徳龍師、妙音院了祥師、香山院龍温師、等々。要するに『真宗体系』『続真宗体系』に出ているような方の講本は皆さん同じ高倉学派の立ち位置で書かれていることが多い。これが一つの大きなメリットと感じます。

他方お西では三業惑乱以降には地方に学轍 (学派) が多く立ち上がり百花繚乱の様相だったといいます。また中央に一人だけだった能化職を廃止して複数の勧学職制に移行したこともあって地方の学轍の様々な考え方を中央に集めての合議制になっていったのだと思います。

その代わりにある学轍だけに注目してみるとそこで宗祖の全部の書物についての講本が残されているわけではありません。残されているのかも知れませんが少なくとも私がアクセスできる形にはなっていません。お西では明治期以降ちょうど是山恵覚和上以降辺りで中央において各学轍のいいとこ取りが行われた感じです。そのためか今のスタンダードな宗学の考え方の中にもある種の矛盾があるようなところもでてきていると思えます。それに対してお東は全体に高倉学派としての一本筋の通った考え方があるのではないかと感じられます。

末灯鈔の講録にて

新型コロナウィルス感染症が蔓延する中で、ZOOMを使って仲間で輪読会を行っていました。その中で『末灯鈔』を読んでいた時期がありました。テキストに使う講本をどうするかだったのですが、国立国会図書館デジタルコレクションではお西の講録が入手できず、お東の一乗院吉谷覚寿師の講録 (『末灯鈔略述』) があったのでこれをテキストに読み進めていました。参加していた別の仲間はやはりお東の易行院法海師の講録 (『末灯鈔壬申記』) を見ながらお互いにZOOMにて輪読をしていました。

一乗院吉谷覚寿師、易行院法海師の両師の講本を比較して、時代がずいぶん違うにも関わらず同じことが書かれていた、これにはちょっとビックリしました。このことは高倉学派として同じ考え方が継承されていることを意味しているのだと感じられます。そしてこの統一された考え方の根源は香月院深励師にあります。

ここからは余談ですが、そのあとお西のテキストとして霊山勝海師の講本 (『末灯鈔講讃』) が手に入りました。でこの講本も一緒に見ながら読み進めていたのですが、霊山勝海師の講本は吉谷覚寿師の『末灯鈔略述』とほぼ内容が同じでした。唯一ご安心の処だけが違っていましたけど。どうやら霊山和上の講本のタネ本だったみたいです。

学轍統一のデメリット

デメリットの方ですが、深励師があまりに偉大だったので以降の学者において学問が固定化されています。これは住田智見師が指摘されていました。それでも深励師の弟子である妙音院了祥師の『歎異抄聞記』では師匠である(あった?)深励師の『歎異抄講義』の内容について「深く考えていない」などケチョンケチョンにしている部分もありました。でもこれは『歎異抄』について深く考察をしていた了祥師だから言えることなのかも知れません。

ここでいう「学問の固定化」とは師を超えることをせずに師の考え方を単に受け継いでそれをなぞることでその門脈内に安住することなのかも知れません。もしかすると香月院の系列にいるというだけで学寮の中での地位が安泰になったのかも知れません。こういった政治的な配慮が師を超えることを躊躇させたことは容易に想像できます。現代の宗学の中でも同じことが起きていないことを切に願います。

明治以降のお東の学轍

面白いことに現在のお東の学者さんたちは清沢満之師以降の近代教学には熱心ですが江戸教学に対してはむしろ否定的な意見が多いという気がしています。これは非常にもったいないことだと感じます。曽我量深師も金子大栄師も深励師には多くを学んでいるはずです。暁烏敏師が恵空講師の語録宗を編集しているのも江戸宗学をよく学ばれていた証拠だと思います。また同じ浩々洞出身の山辺習学師・赤沼智善師の『教行信証講義』が深励師の『教行信証講義』 (『広文類会読記』) を参考にしていることは周知の事実です。

ならばお西に所属する私としては、いまやお東が顧みなくなった深励師や高倉学派から多くを学ばせていただこうという考え方です。

比較ができるから特徴が分かる

お西の宗学を学ぶのになぜ高倉学派を学ぶことが役に立つのかと思われるかも知れません。ところがそれが必要なことがあると思えるのです。勤式の方面での考え方に「特別な法要の荘厳の特徴を知るには如常の荘厳を知らなければ話にならない」というものがあります。毎日本山のお勤めに参拝して如常の荘厳を知っていればこそ特別な法要の時にドコがどう変わったのかが分かるのです。単に特別な法要だけを参拝したとしてもドコが特別に変わっているのかは分からないのです。

同じように、お西の教学的な特徴はお西の教学ではない高倉学派の考え方を知ることでより際立ってきます。これは宗祖が真実五巻を示された後ろに化巻を出されている理由と同じ考え方だと思います。

深励師の講本の特徴

深励師の講本の特徴は、一言でいえば「わかりやすい」に尽きると思います。非常に平易な言葉で簡潔に書かれています。それでいて堅苦しくなく、譬喩もたくさん入ります。「大丸」とか「高島屋」とかも出てきてこの時代にもうあったことを知りました。深励師の講義が平易であることはほかの方の本にも書かれていて自分だけの感想では無いようです。

また仏教学の知識も豊富で、根拠としては浄土三部経や七祖聖教だけでなく、さまざまな経典を典拠として議論を進めていきます。経典を根拠とすることは仏説であれば当然のことで、特に仏辺で語る時の根拠としては仏の言葉である経典だけが拠り所となると思います。もしそれが無ければ単に自分の思いを述べているだけになります。近代のお西の宗学者が仏辺で語る時に大乗経典の根拠があまりなく語るのは単に自分の感想を言っているだけにしか思えない時があります。深励師が同じように仏辺にて語る時にはそこに浄土経典以外も含めて経論の根拠を示されることが多く、ココらなどはお東を学んでいる中からお西の教学を見て常々感じているところです。

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