源信和尚著といわれる『真如観』
製本発注 | 1,700円 | 真如観 | 60頁 |
『真如観』について
今回の原稿は国立国会図書館デジタルコレクションでは「真如観 恵心僧都全集」にてヒットします (こちら)。この『恵心僧都全集』に入っている『真如観』を取り出して製本化しました。非常に短くて読みやすい本です。和語の本なので気軽に読めます。
『真如観』は源信和尚の作と云われてきました。源信和尚の全集に入っていることからも分かります。しかし多分ですが実際には違うのだろうと思われます。そのことは内容をみると分かるのではないかと思います。後年の誰かが源信和尚に仮託して (名前を使って) 流布させたものだろうというのが今の考え方だと思います。
何故に『真如観』なのか?
『真如観』は中古天台本覚思想の代表的な思想書といわれてきました。本覚思想は馬鳴菩薩の『大乗起信論』にて説かれた始覚本覚の本覚が言葉のもとになっています。その前には恐らく如来蔵思想や『涅槃経』に説かれる仏性とかにその源があるのだと思います。
元々の本覚思想は善導大師にもみられるもので浄土教の根底に流れるものであると感じます。ところが日本で更に独自進化したところの中古天台本覚思想はそれとは違うモノになっているのかも知れません。
日本天台では鎌倉~室町~江戸辺りまで独自に本覚思想を発展させてきました。これは中古天台本覚思想などと云われています。中古とは時代区分です。この時代に天台宗比叡山から鎌倉新仏教の開祖が多数出たことについてはこの中古天台本覚思想から脱却したからだという学説もあるようです。
聖道門の天台宗での話だから浄土門の真宗には関係がないのかとなればどうやらそんなことも無いようです。浄土宗の一派である西山浄土宗はこの中古天台本覚思想のあった当時の日本天台に影響を受けて教義を立てています。西山派に一益法門の思想があるのはその辺からなのかもしれません。一般に西山浄土宗と浄土真宗とは考え方にその違いが分かりづらい処があると言われますのでこの二者をキッチリと分けるには中古天台本覚思想を一度しっかりと見ておくと良いかなと思うところです。
そうした中でこの『真如観』は特に伝源信と言われるモノです。『往生要集』を書かれた源信和尚と思想的に同じなのかそれとも違うのか‥、これは非常に興味のある処といえましょう。
内容からみて『真如観』が源信作と思われない部分
『真如観』で強調されるのは、真如を観じる、ココの部分を煩悩即菩提と自分が信じたならばと大胆に解釈して、それだけで真如が自分の身に備わるという思想です。これは現実肯定主義であり、いまの自分そのままで菩提のさとりを得ることができるという一益法門の考え方にもつながります。これを本当に源信和尚は言われたのでしょうか? 源信僧都の『往生要集』には次のようにあります。
問ふ。煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ意に任せて惑業を起すべきや。答ふ。かくのごとき解をなす、これを名づけて悪取空のものとなす。もつぱら仏弟子にあらず。
いま反質していはく、なんぢ、もし煩悩即菩提なるがゆゑに欣ひて煩悩・悪業を起さば、また生死即涅槃なるがゆゑに欣ひて生死の猛苦を受くべし。なんがゆゑぞ、刹那の苦果においては、なほ堪へがたきことを厭ひ、永劫の苦因においては、みづからほしいままに作ることを欣ふや。
このゆゑに、まさに知るべし、煩悩・菩提、体これ一なりといへども、時・用異なるがゆゑに染・浄不同なり。水と氷とのごとく、また種と菓とのごとし。その体これ一なれども、時に随ひて用異なるなり。これによりて、道を修するものは本有の仏性を顕せども、道を修せざるものはつひに理を顕すことなし。(大文第四、正修念仏、作願門より)
どうみても『真如観』に示される内容とは違っていて、むしろ『真如観』にて説かれるような考え方を誡められていると思われます。信じただけではダメで修業が必要という事だと思います。この辺りは今の天台の思想が理としては頓に悟りを得るとしても、事としては歴劫迂廻の修行が必要とされることに同じだと思えます。この一例からも『真如観』が内容的に源信作というのは疑わしいと考えられるのではないでしょうか。
また源信和尚は同じ『往生要集』正修念仏において、信解する(信じる)について次のように述べられています。
問ふ。衆生にもとより仏性ありと信解することは、あに縁理にあらずや。答ふ。これはこれ、大乗至極の道理を信解するなり。かならずしも第一義空相応の観慧にはあらず。(大文第四、正修念仏、作願門より)
これからも分かるように源信和尚の理解では、真如を信じるということは「真理を体得する」ことではなく、「その真理の道理を信解する」ことであるということのようです。この『往生要集』の内容は『真如観』で主張される内容とは大きく異なっていて、ここからも源信和尚が『真如観』を書かれたというのはオカシナことと思えます。
『真如観』が私たちに伝えるもの
浄土真宗にとって『真如観』は関係の無い遠いモノのように思えるかも知れません。でも実は真宗にもこのような考えかたが入ることがあります。その際に中古天台本覚思想を知っているときと知らないときではできる対応に違いがでるかも知れません。特にお西の現在の教学は信心に寄っていると思われますのでこのような本覚法門的な考え方に陥りやすいと言えるのかも知れません。
お西では江戸時代に三業惑乱という宗意安心上の論諍がありました。元はといえば無帰命安心を破する為に三業にて帰命することの重要性を説いたのだと思うのですが、信相続の面だけではなく信の一念にも三業にかかるという理解となっていたところで問題となりました。
この大騒動を経た今のお西の教学は三業にかかる事を極端に嫌う傾向があり、信相続では語らずに信一念の安心の上で宗義を語ろうとするきらいがあります。安心の定まる一念の上では信心こそが正因であり自身の三業が関与する処はありません。ところが安心決定後の起行作業を考えるとそこには報謝という自身の三業が入ってくるので、それを信心正因称名報恩という枠組みで押さえ込むのが今のお西の教学の綱格であるかなと思われます。
この信心こそが大切という考え方は初起も後続も通せばその通りですが、安心を気にするとどうしても信一念を重視します。初起の信心に寄った考え方は一念義にも近いのでちょっと間違えると生仏不二の一元論的な理解に陥る危険性があるようです。実際には凡夫は凡夫、仏は仏の二元論が凡夫である私の側からのモノの見え方ですが、更にココで生仏不二である仏の側 (法の側) からの救いを強く説くお西の法話スタイルとも相まって、仏の側からの衆生救済を私の側にまで持ち込んで話すことがあるとするならば、ソレを聴聞する側にとっては一元論的な理解にもつながりかねません。
そうなることの無いように、特にお西の僧侶ならばなおさら、中古天台本覚思想は是非知っておかなければならないと感じます。この辺りの正しい理解を持つことにより間違った事を伝えてしまう危険を未然に防ぐことができると思われます。